MAGAZINE

2013.11.29

不動産フォーラム21

「花咲くKAWASAKI(下)」

 

 私が現在の職に関心を持つに至る原体験は昭和40年代の私が育った町である川崎駅商業にあります。

 当時の駅ビル(現「アトレ川崎」)の地下食品売場にはサンドイッチ専門店や輸入食品を売る明治屋ストアがあり子供の目には初めて見ることにあふれてました。また地元百貨店さいか屋には最新のファッションが揃っていてお洒落に目覚めた少女の心をくすぐりました。

 当時は日本経済の高度成長突入期、川崎の町もパワーがみなぎり元気だったからこそ子供の私も大いに刺激を受けたと記憶しています。あれが私の”商業おもしろい!”の原点でした。

 

川崎商業3つの波

 私がインスパイアされた川崎商業の近年には大きな3つの流れがあります。

 1950年代、これが川崎近代商業の黎明期ともいえる時代で、1951年~1956年に地元百貨店として小美屋デパートとさいか屋が開業。1959年に駅ビルかわさきも開業し、駅前に大型商業ができ都市らしい活気が生まれた頃であったと思います。1957年には川崎市の人口が50万人になり、昭和時代の川崎のシンボルとなった川崎球場は1952年に開場し60年代から80年代にかけ大洋ホエールズやロッテオリオンズが大活躍をし、川崎の子供達にとっては何となくプロ野球が身近な存在になっていました。(市バスの乗ると金田正一監督が「ロッテを応援して」と呼びかけるアナウンスがあったのです。)

 その頃から70年代中期までは川崎駅前商業の成長期といえます。前述した私の子供時代の川崎商業からの刺激はちょうどこの発展期であり、1971年には日本初出店したマクドナルドが数年後には神奈川県下での初出店場所に川崎駅前小美屋デパートを選んだりして、川崎には旬が生まれていました。1972年には政令指定都市となり、1974年には市の人口が100万人を突破して、たった17年間で人口が倍の50万人も増えるのですから、今の時代にはウソのような話ですね。

 当時は町中どこでも子供や若者がいて混み合っていたなあーと記憶しています。こんな町のにぎわいを反映してか、地域百貨店であるさいか屋は、56年開業時に売場面積1,218坪だったのが2度の増床により1973年には6,702坪まで大きくなり、地域一番店になりました。(調べたところ1965年にさいか屋は4,724坪で売上56.7億円だったのらしいですが、同時期に横浜高島屋が6,527坪で売上139億円だったそうですから、効率は高島屋がさいか屋の1.7倍良かったことになりますね。)

 70年代半ばまでは旬を生んでいた川崎商業だったのですが、70年代後半から変化を迎えることになります。それはライバル横浜駅商業の発展です。

 1964年ダイヤモンド地下街、1965年横浜高島屋、1973年三越、相鉄ジョイナス、1980年ルミネよこはま、1985年そごうと、70年代を軸に横浜駅周辺にも川崎を上回る大型商業が開業し、充実した買回り品(高級衣料、宝飾品、呉服等、価格・品質・色・デザインなどを消費者の選好によって比較購入する商品群)の提供が活発になるにしたがい、川崎市民は便利な交通網(JR、私鉄等)を利用して、品揃えが豊富で比較検討しやすい横浜駅へと流出を始めてしまいました。

すると川崎商業の買回り品充実の横浜ステージに対し便利な最寄り品(食料品、日用雑貨等、消費者が生活な中で頻繁に購入する商品群)ステージへと内容の変化を遂げていったです。高度成長期、昼夜間人口は増加の一途をたどり、売上げも伸ばしていった川崎商業ですが、東京の発展、横浜の発展に挟まれ、自分たちのポジションを上手に(?)変えていった成長期でもあったわけです。この頃、私も元気なティーンエイジャー。思い出してみると「川崎にはたいしたものがないネ」と生意気な口を利き、横浜のジョイナスや渋谷PARCOに遠征を始めるようになっていました。

 

 さて、次の変化は80年代のバブル時代に突入した川崎商業が第2の成長期を迎え、1986年駅前地下街として川崎アゼリア、1987年位映画街だった地域にチネチッタ(映画館+商業+アミューズメント)、同年駅ビルが増床し川崎BEと名称変更、1988年ルフロン(西武百貨店川崎店・マルイ)という複数の商業施設が誕生し注目が集まりました。が、バブル経済崩壊の90年代に、老舗百貨店である小美屋デパートが閉店(1996年)、2003年には西武百貨店が撤退し、川崎商業冬の時代に突入しました。

 この頃川崎商業は、本当に魅力のない商業で、「買えるモノがない、見る気が起こらない」と消費者に振り返ることをさせないような残念な姿になり、駅前はドラックストアとコンビニと携帯ショップばかりの商店街に変わり、食品や廉価医療、家電と居酒屋は豊富にあるものの、それだけとういう暗い時代となってしまったのです。70年代後半から横浜に対し川崎商業が最寄りポジションを取ったがゆえに、バブル後の方向性が極端に不景気下の大衆路線へと街全体で向かうことになってしまったのかもしれません。

 この頃のイメージが長く尾を引いて、前回書いた「川崎はきたない」「貧乏人の街」「お洒落なものは売れない」といった印象を多くの人々に植え付けていったような気がします。あんなにピカピカ輝いていた昭和の活気ある商業を知っている私はこの当時とても残念な気分で川崎を見ていました。

 

花咲くKAWASAKI

 2006年ラゾーナ川崎が川崎駅西口(前述した川崎商業は東口の出来事で、西口はラゾーナが誕生するまで工場地帯でした。川崎駅ウラに東芝や明治製菓の大工場があったのです)に誕生しました。

 この2006年が、川崎商業にとってだけではなく川崎という街にとって大きなエポックメイキングとなり、まるで革命が起こったように川崎の街イメージが一挙に向上、商業も急激にお洒落に刺激的になっていきました。それほどラゾーナ川崎のインパクトは大きかったわけです。

 ラゾーナ川崎をプランニングするときに私が考えた4つの大切なポイントは、周辺で最も大きな食品ゾーンと対抗できる規模の食品売場をつくることで、毎日人を集め、川崎のデパ地下化する、川崎にさもありなんと思われるイメージのファッションはスタート時に絶対取り扱わない、公害の街川崎で夜空の星が眺められる空間をつくる、教育機関がいまいちな川崎海ゾーンに人々が学べる場をつくる、でした。上手に形にできたものもあれば実現しなかったものもありますが、ともかく、大勢の人々が「川崎に遊びに行こう!」と思ってくれる街、ピカピカとした川崎がラゾーナをきっかけに生まれつつあるのです。

 ラゾーナ川崎が開業したことが起爆剤となり、今、商業施設は新たな発展期を迎えています。

 ラゾーナに対抗するべく2008年から川崎BE(駅ビル)がリニューアルをし、2012年には「アトレ川崎」としてファッションビルに生まれ変わりました。また、西武撤退後低迷していたルフロンが2008年にファミリーやキッズ商品の充実を図り独自路線を走っています。2018年頃を目指して川崎駅に「エキナカ」計画、京浜急行川崎駅ビル計画等が進んでいるそうです。

 おもしろいですね。この間まではだれも注目をしなかった街に、新しい商業が生まれ、人が集まってくると、周辺にも新施設が生まれ、さらに人が集まり、そこに刺激を受けて、今まで何もしてこなかった従来の街の機能がリニューアルを始める(図2)。そして街の活力がスパイラルに広がり、街のエネルギーとなって都市間競争の中で支持力を強めていく。こんな街の成長のプロセスが川崎商業から学ぶことができます。

 さて、次にKAWASAKIが大きな花を開かせるために何を深化させていったらいいのでしょうか?その課題のいくつかは東口の商店街の活性化でもあり、若者が集まるために教育機関の充実、そしてが外国人にも楽しめる(川崎は羽田空港が近い街)エンタテインメントな街作りではないでしょうか。

 まだまだ川崎のスパイラルアップは続きます。

 

 

(記:島村 美由紀/不動産フォーラム21 2013年11月号掲載)