MAGAZINE

2008.02.04

不動産フォーラム21

「東京駅エポックメイキング2008年」

 

 海外を訪れる時、空港から街へ入る景色に関心があります。ブルックリンから橋を渡る時のマンハッタンを眺め、亜熱帯の植物の美しさで迎えられるグリーンシティ・シンガポールの空気……、どれも旅人の心を強く引きつけるパワーを持っています。

 

 では海外の人が成田に降り立ち電車で東京駅にたどり着き(近頃はリムジンバスも多様なエリアに運行をしており一概に東京駅が日本の第一歩とは言えなくなりましたが…)、「オオッ、これがTOKYOか!」と思った時、ウェルカムゲートである東京駅にどんなオーラを感じるのか?気になります。できれば何らかの良い印象を持ってほしいものですが、それを創り得ているでしょうか。

 

 この数年、東京はウォーターフロントや品川、恵比寿等新しいエリアが開発されてきましたが、2007年は六本木・銀座・東京駅と従来から東京の核となってきたエリアに再活力が注入された1年だったという印象があります。メディアでは華やかな六本木(ミッドタウン、国立新美術館等)や有楽町・銀座(イトシア・マロニエゲート・ラグジュアリーブランドの新進出)に多くのスポットが当たり話題になっていますが、私が特に注目をしているのは東京駅の「Tokyo Station City」の開発です。

 

 1914年(大正3年)に赤レンガ駅舎の「東京停車場」として誕生した東京駅が、100年の時を超えて、再整備と新開発がなされ、2012年ごろを目標に生まれ変わろうとしています。すでに丸の内エリアは、オフィスビルの再開発や丸ビルに代表される商業施設開発がこの10年間に進行し、2007年4月には新丸ビルがオープンしてますます街の充実感を高めているのは周知のとおりです。明治期から丸の内側は日本を代表するオフィス街で、企業も人もそこはかとない一流感覚が街のオーラとなっていたエリアに、さらなる活力である商業が注入されたわけです。

 

 私が注目しているのは東京駅の八重洲側。2007年11月に周辺では最も高層の205m(新丸ビル198m)のツインビル「グラントウキョウサウスタワー&ノースタワー」が開業しました。

 

 なぜ私がこのプロジェクトに注目しているのかをお話すると、その影響力の拡大パワーに対する期待感です。従来、多くの人々のイメージでは、東京駅は丸の内側が表玄関で八重洲側は裏口玄関という印象だったのではないでしょうか。事実、赤レンガの東京駅駅舎は丸の内側を正面として建てられていますし、江戸時代に大名屋敷が立ち並んでいた丸の内周辺が明治維新後陸軍省用地となり、明治23年(1890年)に政府の要請に応じて三菱財閥が欧米諸国に並ぶ日本のビジネスセンター構想を持って払い下げを受け、明治27年(1894年)には第1号である赤レンガの建物が竣工したという120年も昔から時間が積み重ねられている丸の内です。開発当初、その中心は馬場先門あたりだったそうで、3階建ての赤レンガ建物が連なり「一丁ロンドン」と呼ばれたそうですが、大正3年に東京駅がオープンすると丸の内の中心は北へ移り、駅前から皇居に向かって延びる行幸通り沿いに大手企業の入居するビルが建ち「一丁ニューヨーク」と称され、当時からエリートサラリーマンとモダンな職業婦人(?)がいる聖地であったわけです。この歴史が現在でも受け継がれ、「千代田区丸の内」というアドレスは100年を経た今でも実業界にとってスーパーバリューを持つものではないでしょうか。

 

 かたや八重洲は、トップ(丸の内)に対するセカンドポジションであったことは否めません。私の印象では、ビックターミナルでありながら空間余裕のない駅前界隈や丸の内と日本橋エリアに挟まれて存在の薄い八重洲エリア(八重洲ブロックは外堀通り沿いに鉄道と並行して延びる南北1㎞、東西100m強の細長い街)は、何となく整然さに欠ける下町感ある風景で(事実、前述したように丸の内は明治期の都市開発により都市スケールが100m×150mのブロックを基本として区画されていますが、八重洲側は、江戸時代の商いの中心であった日本橋の流れを受け120m×40mの細長く細かいブロックで形成されていることが地図上でも読み取れます。この都市スケールにより丸の内の大規模開発が容易であることから生まれるダイナミックでありつつ整然とした都市風景と小規模開発が主となる八重洲・日本橋エリアの密集した都市風景が生み出されているのです)、いまいちピンとくる感じがありませんでした。皆さんの印象はどうでしょうか?

 

 丸の内同様に八重洲の歴史をひもとくと、名の由来は1600年に豊後国に漂着したオランダ人航海士ヤン・ヨーステンが馬場先門あたりに屋敷を構え、その付近が「やよす海岸」と呼ばれたことから”八重洲”となるというハイカラなストーリーを持っているのはちょっとした驚きです。八重洲地区の発展は昭和4年(1929年)に東京駅東口改札が開設されたことから始まります。それまで東京駅は前述した丸の内側(西口)に向かって開かれていたので、日本橋に行く人々は丸の内側から大回りをして東側に出ていたそうですが、関東大震災後の復興で八重洲側から日本橋にかけてビル建設が進み、通勤者の増加から東口改札が設けられました。昭和23年(1984年)、外堀の埋め立て跡に外堀通りが完成、駅前に鉄鋼ビルや国際会館や八重洲口新校舎と大丸百貨店が開業(昭和29年)と駅付近の開発が進み、昭和39年(1964年)に新幹線の開通というエポックメイキングを迎え、八重洲の役割は不動のものになっていきました。

 

 「”役割は不動のもの”なのにセカンドポジション」が長年、八重洲の問題であったわけですが、そこに不足していたのは”都市の核を印象付ける景観”であったと私は考えています。よって、今回の「グラントウキョウサウスタワー&ノースタワー(最終完成予想図参照)」の開発は、今後八重洲エリアから日本橋にかけて新規開発や不動産価値を誘発する波及効果の高い起爆剤になる開発なのです。

 

 東京駅の乗降客数(表参照)は、1日約110万人で、一時期減少したものの、ここ数年は微増傾向にあります。データは公開されていませんが、鉄道関係者の話によると、110万人乗降客数のうち、平日は丸の内4:八重洲6、休日は丸の内2:八重洲8と、八重洲側(東口)利用者が多い傾向にあり、10年前は5:5であったものがこの10年で八重洲側の強さが顕著になりつつあるのだそうです。東京駅を利用しない人にとってはやや意外な話かもしれませんが、実は八重洲の底力は徐々に表面化してきています。

 

 常日頃、商圏を考える私の視点では、八重洲のビックポテンシャルはその懐の深さにあります。前述したとおり八重洲側は、南北に薄い一帯の八重洲エリアがありますが、その先はヒト・モノ・カネの大集積地である北側の日本橋エリアと南側の京橋エリア。京橋の隣町はアジア最大のショッピング街・銀座に連担しています。そしてそれらの街のより東側には八丁堀や人形町、南側には築地となり、東京駅東口前の外堀通りから隅田川まで、まるで春の風にそよぐ女性のフレアスカートのような形をした中央区の主要な街が、東京駅をヘソにして広がっているのです。もちろん、最寄駅の公共交通機関は地下鉄やJR別駅の街が多くありますが、それぞれに経済活動が活発な活性化された街に対する玄関口が東京駅の八重洲側であるという強さは圧倒的なものがありあます。これに対し丸の内エリアは、背後に皇居・日比谷公園を控えていることから吸引力の発揮にはやや限定的な環境にあるわけです。

 

 10年間で八重洲側利用者が増加した要因を関係者に尋ねると、「丸の内側の開発も進んだが、それを上回る日本橋・京橋の開発が進行し、日常的に街を往来する通勤者が増加。さらに新幹線のホームが八重洲側にあることも平日のみならず休日の利用者増につながっている」という話でした。

 

 徐々なる街の変化は四半世紀で体現化されると言われています。一般の人たちが○○タウン、○○エリアとして固有のイメージを持つまでには、25年程度の時間を積み重ねで、街の役割や景観が、新生・再生を繰り返しながら熟成されていき、ようやく四半世紀後に多勢の人々に共通認識をもたらす、ということなのでしょう。

 

 世界に名だたる巨大都市”東京”、その玄関である東京駅は、丸の内に歴史あるオーセンティックな雰囲気の街を持ちつつ、八重洲側にはフレキシビリティにあふれ多勢の人を受け入れる躍動的な雰囲気の街が形成される、そんな夢が実現するには時間が必要ですが、ツインタワーの完成と今後完成するノースタワー第Ⅱ期計画、グランルーフ、八重洲口駅前広場整備という「Tokyo Station City」の大開発は地域への強烈な影響力を放っていくでしょう。

 

 

(記:島村美由紀/不動産フォーラム21 2008年2月号掲載)

<左:東京駅 西と東の顔>
<右:今始まるTOKYOステーション革命>