日経MJ
下北線路街 穏やかな日常 -完成2年、地元に愛される場に-
「下北線路街」は小田急線東北沢駅(東京・世田谷)から世田谷代田駅(同)までを地下化したことで生まれた線路跡地の細長い1.7kmの敷地に、小田急電鉄がディベロッパーとして6年をかけて13エリアを整備した特殊な再開発だ。最後となった下北沢駅前「NANSEI PLUS」の開業から2年が経ち、エリア全体が地元住民の馴染みの場になってきている。
欲張らない開発 街・人になじむ
古着屋の街・サブカルチャーの街・演劇の街などとして紹介される下北沢。個性的な飲食店も多く、常に来街客で混雑しているイメージがあるかもしれない。しかし実際は、小田急線の南西口改札を出ると代田や代沢の閑静な住宅地に繋がり落ち着いた街の表情を見せる。
南西口前の小さな広場を行き交う人々は学校通いの小学生や自転車の母子、犬と散歩する老夫婦、買い物袋を提げ帰路を急ぐ人といった様子で、大都市・渋谷からわずか5kmしか離れていない地とは思えないほどありふれた日常の生活風景が展開されている。
南西口の駅前広場を囲むようにあるNANSEI PLUSは全体で3,460㎡の広さ。中核の「(tefu)loungeは小規模な5階建て商業施設ながら、ミニシアターやシェアオフィス、カフェやグルメスーパーなどで構成され、街の人のニーズを受け止めている。待ち合わせや涼み処という“駅前の止まり木”の役割を持ち、地上広場と2階デッキで人溜まりをつくる計画が下北沢のサイズ感にマッチしている。
南西口を出ると、下北沢駅と世田谷代田駅の中間に2020年4月に開業した床面積900㎡の商業施設「BONUS TRACK」がある。簡易な長屋をイメージさせる2階建ての建物は敷地に5棟が向かい合わせに建ち、街路から小径を進むと共有の広場となり再び街路に抜けていくとう連続性をつくっている。
BONUS TRACKにはカフェやビストロや書店など12店舗が入居。一部は2階が居住スペースとなっている。どの店舗も店主の顔が見え「この人が焼いたケーキ」「この人が仕込んだ料理」「この人がセレクトした本」が手に取るように伝わる店舗群で、「地元感」が溢れている。
店前の看板やサンプルなどの個性的な演出が、建物全体のアクセサリーとなるつくりだ。広場ではかき氷やビールを楽しむ人たちがいて足元に蚊取り線香の煙が立つ風景も。ピカピカな最新デザイン建築ではなく、使う人、住む人が馴染ませていく空間が雰囲気をつくるのか、1人でフラリと立ち寄りお茶や食事をするラフな地元客を何人も見かけた。
世田谷代田駅そばに35室の温泉旅館「由縁別邸 代田」が開業したのは同じ2020年9月のこと。線路跡地に温泉旅館をつくるという斬新な発想で、お屋敷から譲り受けた建具や景石などを活用し、歴史ある旧家を思わせる上質な和建築をつくり出している。
1泊7万円以上の部屋もある高級旅館は、意外にも7割が東京圏のお客で、さらに世田谷区民の常連が多いという。「気分転換に」「娘一家の里帰りで」というような懐に余裕ある顧客の声が聞こえてくるのも世田谷ならではの話だ。夕暮れ時、駅から買い物袋を提げて帰路を急ぐ人々が高級旅館の前を行き交っている。
下北線路街の魅力の土台になるのは緑路の良さである。低い樹木や花咲く木々、大きな桜の木が目印のポケットパーク(小公園)もある。これらはかつて線路脇にあった木を生かしたわけではなく、全て今回の計画でつくったものだという。ランドスケープを担当したUDS(東京・渋谷)の小泉智史執行役員は「既存の街に馴染むように、樹木の高さや低さ、植栽帯の右左の幅など路の全方位の景色を大切に計画した」と話す。
「このごろ近所に新しいマンションが建ったりカフェやグリーンショップがオープンしたりしている。これも当プロジェクトが刺激となり周辺の街が成長している証だ」と話すのはUDSの高宮大輔執行役員。緑路を歩いていると木造アパートの2階に「本」と染め抜かれた看板代わりの暖簾がかかっていたり、近隣の町から移転してきたというお洒落なカフェをポケットパークの奥に発見したりと下北線路街の良さが街に染み出していることが分かる。
この全長1.7kmのエリアには、都心に戻るのが億劫になる程の穏やかさが漂っている。ヒューマンスケールに重きを置いた欲張らない開発の豊かさを知ることができる他に類のない成功事例といえる。
(記:島村 美由紀/日経MJ「デザイン面」 2024年(令和6年)8月28日(水)掲載)